ぼくらの根源的生存戦争
“ひとはいったい どこから来て、どこへ行くのだろう…”
まぁ、どこへ行くかはさておき、どこから来たのかの予測の物語は、
“ぼく”を胸キュンさせる物語であることに間違いない。
はじまりの自然淘汰
ある日
原子どうしが出会い、
化学反応をおこして結合し、
原則として、原子は安定なパターンに落ち着く傾向がある。
ここで重要なのは、地球上に生物が生まれる以前に、分子の初歩的な進化が物理や化学のふつうのプロセスによっておこりえたという点である。
設計とか目的とか指示を考える必要はない。
エネルギーのあるところで一群の原子が安定なパターンになれば、それらはそのままとどまろうとするであろう。
最初の型の自然淘汰は、単に安定なものを選択し、不安定なものを排除することであった。これについてはなんのふしぎもない。それは定義どおりにおこるべくしておこったのでたる。
うむ。
なんのふしぎもない。
たとえばDNAの螺旋構造が安定していることは、あたまのわるいぼくにも何となくわかる。
より安定したカタチに落ち着き、それを保つこと、それがもっとも根源的な “ぼくら”の 命題だった。
舞台は海のスープ
生物学者や科学者が、3、40億年前に海洋を構成していたと考えている「原始のスープ」。
そこにはおそらく水、二酸化炭素、メタン、アンモニアなど、太陽系の少なくともいくつかの惑星上にあることがわかっている単純な化合物が漂っていた。
これらの有機物は、おそらくは海岸付近の乾いた浮き泡や浮かんだ小滴の中で、局部的に濃縮され、太陽からの紫外線のようなエネルギーの影響をうけて化合し、いっそう大きな分子へと育っていったという。
むかしむかし、太陽を浴びて泡の中で生まれた分子が、濃いスープの中を漂っていた…。
だれもいない 静かな景色だ。想像すると気持ちがよい。
そこには寂しさすら存在し得ない。感情という機構が存在しない。
ただ “ある” だけの世界。
うーむ、すてきだ。
そこに自己を複製する分子がうまれた
実際のところ、自らの複製をつくる分子というのは、一見感じられるほど想像しがたいものではない。
しかもそれはたった一回生じさえすればよかったのだ。
鋳型としてのレプリケーター(自己複製子)を考えてみることにしよう。
それは、さまざまな種類の構成要素分子の複雑な鎖からなる、一つの大きな分子だとする。
この自己複製子をとりまくスープの中には、これら小さな構成要素がふんだんに漂っている。
今、各構成要素は自分と同じ種類のものに対して親和性があると考えてみよう。
そうすると、スープ内のある構成要素が、この自己複製子の一部で自分が親和性をもっている部分に出くわしたら、必ずそこにくっつこうとするであろう。
このようにしてくっついた構成要素は、必然的に自己複製子自体の順序にならって並ぶことになる。
このときそれらは、最初自己複製子ができたときと同様に、次々と結合して安定な鎖をつくると考えてよい。
この過程は順を追って一段一段と続いていく。
これは、結晶ができる方法でもある。
一方、2本の鎖が縦に裂けることもあろう。すると、2つの自己複製子ができることになり、その各々がさらに複製をつくりつづけることになるのである。
はじめにくっつこうとする意思があった。
むろんそれはぼくらの“脳の意思”とは全く雰囲気のちがうものであるが、ぼくらの根源的な欲求はこの頃からのものなのかもしれない。
親和性の高いものとくっつこうとすることが、結果的に自己の複製を生じさせた。
重要なのは、新しい「安定性」が突然この世に生じたことである。
あらかじめスープの中に、特定の種類の複雑な分子がたくさんあったとは考えられない。
なぜなら、そうした分子はそれぞれ、たまたま運よく特定の安定した形になっている構成要素に頼っていたのだから。
自己複製子は生まれるとまもなく、そのコピーを海洋じゅうに急速に広げたにちがいない。
レプリケーターの戦い
誤ったコピーは、ほんとうの意味で改良をひきおこしうるし、ある誤りがおこることは、生命の前進的進化にとって欠かせぬことであった。
誤ったコピーがなされてそれが広まってゆくと、原始のスープは、すべてが同じコピーの個体群ではなくて、「祖先」は同じだが、タイプを異にしたいくつかの変種自己複製子で占められるようになった。
いくつかのタイプのものがあるとどうなるか?
そこに異なる傾向が生まれ、数のちがいが生まれるであろう。
- 他のタイプより安定しているもの
- 他のタイプより分解されにくいもの
このようなタイプのものは、スープのなかに比較的多くなっていったはずである。
それは長生きの直接の結果であるばかりではなく、それらの分子が長期間にわたって自らのコピーをつくることができたから。
したがって長生きの自己複製子はさらに数を増す傾向があったにちがいない。
そしてもうひとつ、重要であったにちがいない特性がある。
- 他のタイプより多産であるもの
A型分子がB型分子よりはるかに長生きだとしても、A型分子はほどなく数の上でB型分子にはるかに追い越されてしまうであろう。
したがって、スープの中の分子には、たぶんいっそう高い「多産性」に向かう「進化傾向」が存在していたにちがいない。
- 安定していて
- こわれにくく
- 多産であるもの
海のスープの中には、こうした特性を備えた分子が増えていった。
自己複製子が生きていると言えるかはわからないが、つまり、こうした特性のものが “生き残っていった” のだ。
むろんここに感情はない。
したがって優れているとか、劣っているという概念は適切ではないと思う。
しかし誤解を恐れずにいえば、これがぼくたちの根源的な優劣であり、つよいものの生き残るセカイのはじまりだった。
そしてはじまる感情なき戦争
そしてその資源をめぐって、
自己複製子の変種ないし系統が、競争をくりひろげたことであろう。
自己複製子の変種間には生存競争があった。
それらの自己複製子は自ら闘っていることなど知らなかったし、それで悩むことはなかった。
この闘いはどんな悪感情も伴わずに、というよりなんの感情もさしはさまずにおこなわれた。
だが、彼らは明らかに闘っていた。
それは新たな、より高いレベルの安定性をもたらすミスコピーや、競争相手の安定性を減じるような新しい手口は、すべて自動的に保存され増加したという意味においてである。
改良の過程は累積的であった。安定性を増大させ、競争相手の安定性を減じる方法は、ますます巧妙に効果的になっていった。
中には、ライバル分子を化学的に破壊する方法を「発見」し、それによって放出された構成要素を自己のコピーの製造に利用するものさえあらわれたであろう。
敵を砕き、生存する。
この構造は今日ヒトが行っている戦争にまでつづく。道徳など虚像である。
そこにはほんとうの意味での悪感情など存在しない。
それが自己複製子、レプリケーターの生存競争であるから、彼らはただただその構造を実行するだけである。
おそらくある自己複製子は、化学手段を講じるか、あるいは身のまわりにタンパク質の物理的な壁を設けるかして、身を守る術を編みだした。
こうして最初の生きた細胞が出現したのではなかろうか。
自己複製子は存在をはじめただけでなく、自らの容れ物、つまり存在し続けるための場所をもつくりはじめたのである。
生き残った自己複製子は、自分が住む生存機械(survival machine)を築いたものたちであった。
しかし、新しいライバルがいっそうすぐれて効果的な生存機械を身にまとってあらわれてくるにつれて、生きていくことはどんどんむずかしくなっていった。生存機械はいっそう大きく、手の込んだものになってゆき、しかもこの過程は累積的、かつ前進的なものであった。
こうして彼ら「自己複製子」がつくりだした外壁、彼らを護る城、彼らの国の防壁。
それがぼくらである。
彼らレプリケーターは今日かたちを変え、
DNAとしてぼくら無様なヒト型ロボットのコックピットに腰掛けている。
じゃあぼくは
ぼくの意思のようにみえるこれは
いったい“誰のもの”なのだろうか……なんて、
“誰のもの”だなんて、
そんなふうに自己を意味ありげな存在として自認するのは烏滸がましいね。
引用・参考文献:
- 作者: リチャード・ドーキンス,日高敏隆,岸由二,羽田節子,垂水雄二
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
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